2015年10月1日木曜日

【書評】松尾義之『日本語の科学が世界を変える』(筑摩選書)

 日本は、母国語で科学を学べる、数少ない国の一つなのだ。



 科学ジャーナリストとして幾多のキャリアを積んできた松尾氏が、その経験を元に持論を展開した本。松尾氏は、日本は母国語、すなわち日本語で科学を学べるという世界でもユニークな国であり、それが日本の科学の発展におおいに寄与しているという。
 なるほど、確かにそうだ。世界を見渡すと、母国語で科学を学べるのは高校レベルまでで、その後は英語を通して学ぶ国が大半なのだ。
 しかし一般的には、それは否定的に取られることが多い。日本人は英語が苦手だから、わざわざ日本語に翻訳し、それで勉強するのだと。それに対して諸外国は、どんどん英語教育を進め、大学生になれば英語で科学を学んでいる。それを見習うべきではないかと。
 松尾氏は、それに真っ向から異を唱える。日本の科学は世界でも非常にユニークであり、それはたとえばノーベル賞受賞者が非欧米国では圧倒的に多いことからも明らかである。日本の科学は遅れているどころか、独自の視点をちゃんと持っている。その根幹をなしているのが「日本語で科学する」ことなのだと。

 「母国語で科学できる」ことが、日本の科学の独自性を高めていることは事実だろう。ところがこの「独自性」はくせ者で、これもよい意味にとられないことが多い。「独自性」は裏を返せば非グローバル、すなわちガラパゴスなのだ。
 しかしここでも松尾氏は異を唱える。非グローバル、ガラパゴスだからこそ、日本の科学はよい意味でユニークなのだと。(しつこいが)ノーベル賞受賞者がたくさんいるのがその証拠だと。

 この松尾氏の主張には、おおむね同意である。たしかに、英語の専門書を読むよりも、日本語で読むほうが頭に入る。また、日本語でインプットした知識は、日本語で思考することができる。ディスカッションも、日本語でできる。これが日本の科学の独自性を高めているのだろう。

 というように、私は大枠では同意なのだが、残念ながら松尾氏の主張を証明することはできない。
「日本に日本語で科学する文化がなかったら、日本の科学はどうなっていたか」
を証明する手立てはないのだ。もしかしたら、英語で科学をしていたら、日本はもっとたくさんノーベル賞を取っていたかもしれない。

 科学の世界を扱った本でありながら、その主張が科学的ではない(証明不可能な)ところが皮肉だが、これは仕方ない。「幽霊がいないこと」を科学的に証明できないのと同じようなことなのだろう。
 松尾氏の主張に同意するかどうかは、科学的な観点からではなく、感性でしか判断するしかなさそうだ。科学も人の営みなのだ、ということなのかもしれない。




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