2011年10月6日木曜日

知ってるようで知らなかったノーベル賞 その4

3章 賞金は誰が出しているの?(つづき)

 前回は、ノーベル賞の賞金について、その秘密を明らかにする前に終わってしまった。今回こそは、その秘密を解き明かしていこうではないか。
 前回、今年(2007年)のノーベル賞の賞金は、1千万SEKであることを述べた。1900年にノーベル賞が始まって以来、ずっとこの金額だったのだろうか。もちろんそんなことはなく、1901年の賞金は約15万SEKだった。現在の賞金の約1.5%である。今回、賞金の変遷の一覧を付け加えたのでご覧いただきたい(下のグラフ)。1901年から順に賞金を見ていって、何か気づくことはないだろうか。そう、なんと賞金は下がっているではないか。多少の増減を繰り返しながら、基本的には下降線をたどり、1923年に最低金額を記録している。その後は上昇に転じるものの、1930年頃からはまた下がりはじめ、1945年には約12万SEKとなってしまう。グラフをご覧いただければ、一目瞭然だろう。1950年以降は基本的に右肩上がりで、1981年に初めて100万SEKの大台に到達すると、それからたった20年後の2001年にはその10倍の1千万SEKとなり、現在に至る。初期の右肩下がりや、近年の急上昇はいったいどういう理由によるものなのだろうか。

ノーベル賞賞金変遷表


 ノーベル財団は1900年に創立され、ノーベルの遺言に沿って遺産を管理した。遺産に関する遺言の主旨は「がっちり元手はキープし、できれば増やす」というものであった。そのうえで、賞金の額も「できれば増やす」というように書かれていたわけである。そこで財団は、遺産をイギリスの国債や不動産などのかたちに変えた。遺言にある「がっちり」という言葉に忠実に、担保のしっかりした運用を行い、手堅く資産を守った。その結果が、先の表にあるような賞金の微妙な増減となって現れている。手堅く運用して何とか得た利益を、賞金として還元していたのであろう。
 しかし、手堅い運用には限界があり、賞金は相対的にはどんどん減っていった。経済が発展し、物価はどんどん上昇するのに、賞金はそれに見合うほどは増えなかったのだ。もう一度、先ほどの1950年までのグラフをご覧いただければ、そのことがよくわかるだろう。1945年の賞金は、121,333 SEKであり、なんと第1回の賞金よりも少なくなっているのである。
 これはマズい。財団はそう思ったに違いない。
 そこでまず財団は、第二次大戦終了後の1946年に、免税の権利を得ることに成功する。利益を得ても税金を払わなくてもよくなったわけだ。ある一つの私的な財団が免税を認められるというのは、かなり異例のことに違いない。この当時、ノーベル賞はすでに非常に権威のある賞だったからという理由もあるのだろうが、免税を認めさせるためには関係者のたいへんな努力があったのだろう。さらに1953年には、資産の運用についてのルールを変更し、あらゆる種類の株式を購入できるようにした。
 上記の二つの出来事を期に、賞金は急上昇を始める。賞金の変遷表をご覧いただければ、はっきりわかるだろう。しかし、いくら免税の権利を得ているとしても、戦後、一貫して賞金を増やし続けているというのは、大恐慌やオイルショックもあったわけだから、かなりの資産運用能力があると想像できる。とくに近年の上昇率は顕著で、先にも書いたように、20年間で賞金を10倍に増やした。村上ファンドやスティールも顔負けというところだろうか。
 以上のように、ノーベル賞の賞金というのは、ノーベルの遺産をノーベル財団が運用した、その運用益から拠出されているのである。いわれてみれば当たり前のような気もするが、意外に知らないことだったのではないだろうか。ちなみに、特定の団体その他からの寄付などはいっさい受け付けないそうだ。その理由は、もちろん、賞の選考に影響を与える恐れがあるからだ。
 ノーベル財団が資産運用をしているというのは、ちょっとイメージとは違う感じもするが、そういう泥臭いこともしないと経済的に成り立たないのだろう。結局、「先立つものがないと…」ということなのだろうか。ノーベル財団のやりくりも、わが家の家計も、なんだか同じようなことになっているのかなあとも思ったりした。

0 件のコメント:

コメントを投稿

【読書メモ】東野圭吾『あなたが誰かを殺した』(講談社)

 加賀刑事シリーズ、最新第12作。娘が学校の図書館で借りてきてくれたので、文庫化前に読むことができた。  このところ、加賀の人生に絡んだ話が多かったが、シリーズの原点回帰。加賀は探偵役に徹して事件を推理する。いかにもミステリーなミステリー小説だ。  別荘地で起きた連続殺人事...