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2011年10月6日木曜日

意外に知られていないサンマの生態  謎の多いその一生 その2

 非常に身近なサンマだが、その生態は意外に知られていない。つい最近までは、何年くらい生きるのかや、どこで産卵するのかなどの基本的なこともわかっていなかった。また、養殖もいまだに成功しておらず(これは、そもそも養殖する必要がないということもあるのかもしれないが)、なんと、1年以上飼育に成功した水族館も、つい最近まではなかったそうである。近年になって、福島県の「アクアマリンふくしま」という水族館が、はじめて展示に成功した。その苦労の様子を知りたい方は、次のサイトをご覧いただきたい。

http://www.marine.fks.ed.jp/scie_02.html

 こうした研究の成果により、次のようなことがわかってきた。
 まず、サンマの寿命だが、通常は1年でその生を終え、長くても2年で死んでしまうらしい。あれだけの大きさになるのだから、3~5年は生きるのかと思っていたが、意外である。専門家も、ずっとそのように考えていたらしいが、ハズレだったわけだ。
 引き続き、簡単にその一生を追ってみよう。産卵時期については、冬季がおもな産卵期だと考えられていたのだが、産卵はほぼ一年中行われていることもわかってきた。私もそれほど魚博士なわけではないが、年中卵を産む魚というのは聞いたことがない。他にもいるのだろうか。ともかく、これも従来の予想はハズレである。
 次に産卵場であるが、西日本沖の黒潮の流域だとずっと考えられていた。しかし、もっと北の冷たい海でも産卵は行われており、遠いところでは、アメリカの西海岸でも産卵が確認された。サンマというと、東北地方~北海道の太平洋側に生息する魚というイメージだが、太平洋中に生息しているというわけだ。けっこうグローバルな魚なんですな。しかも、あちこちで卵を産んでいる。こういったことも、漁獲量が減らない理由なのだろう。
 日本周辺で卵からかえった稚魚は、春になるとプランクトンを求めて北上し、北海道東部に集合する。ここでエネルギーを蓄え、夏になると産卵のために南下する。この、南下してくるサンマを捕まえて、われわれは食べているわけだ。脂がのって美味しいのは産卵前のサンマであり、産卵後は脂が抜けて美味しくなくなる。だから、東北や北海道で獲れたサンマが美味しいのだ。和歌山や四国でもサンマは捕れるのだが、産卵後で美味しくなくあまり食べられない。ただ、昔は紀伊(今の和歌山県)がサンマの本場であり、いまでもサンマ寿司は名物である。当時は紀伊まで脂ののったサンマが下りてきていたのか、それとも昔から脂の抜けたサンマで寿司を作っていたのか、いったいどっちなのだろう。また、一部のサンマは、太平洋側ではなく、日本海側を南下する。日本海産のサンマを食べたことはないが、美味しいのだろうか。一度、食べてみたいものだ。
 そして、この南下の最中に卵を産み、サンマはその一生を終える。

 調べれば調べるほど、従来考えられていたこととは違う結果が判明するサンマ。その身近さからくる「普通の魚」というイメージとは違い、けっこう謎の多い魚である。これからも、われわれを驚かせるような発見があることを期待したい。

意外に知られていないサンマの生態  謎の多いその一生 その1

 今年もその季節がやってきた。タイトルからおわかりの通り、サンマの季節到来である。一匹がだいたい150円程度となったこの時期、わが家では今季初サンマが登場したが、まだ脂のノリがもう一つでアッサリしすぎており、正直、物足りなかった。だが、もう一週間もすれば、うまみたっぷりのサンマが食べられるだろう。今から楽しみだ。
 今は、わが家の女王様が「魚は骨が…」とか「魚ばかり食べると水銀が…」などとおっしゃるので食べる回数は減ったが、しかしこの時期になると、週に一回はサンマが食卓に登場する(させている)。これでも、平均かそれ以上は食べていると思うのだが、結婚前の一人暮らし時代は、サンマは私の主食であった。多いときには、週に3~4回は塩焼きを食べ、さらに、自らさばいて刺身を食べたりしていた。私の体のタンパク質の80%は、サンマに由来するものであったといっても過言ではないだろう。

 マグロはもう食べられなくなるんじゃないかとか、イワシの価格が高騰しているとか、魚好きにとっては暗い話題の多い中にあって、サンマは実に優等生である。ここ15年ほどのサンマの漁獲量は、1998年と1999年にやや減少したものの、それ以外の年は安定して20万トン以上をキープしている。そんなサンマには「大衆魚キング」の称号を授与することにしたい。刺身でよし、寿司でよし、焼いてよし、揚げてよし、干してよし、和食にも洋食にもよし、まさにスーパー大衆魚である。

 そんなサンマだが、こんなにたくさん獲れて、こんなに身近であるにもかかわらず、その生態はあまりよくわかっていないらしいという噂を耳にした。つきあい始めてすでに2年もたつ彼女がいるのに、そういえば、出身地も、出身高校も、親の職業も、もちろん前の彼氏のことも、何も知らなかった、というのに匹敵する大事件ではないか! そこで私は、調査を開始した。
 次回に続く。

クーラーってステキ  ~クーラーの発明者は誰か その3~

 私は「気化熱をうまく使えばものを冷やすことが可能になるんじゃないか?」ということを思いつき、実用化した人をクーラーの発明者と認定したいと考えている。しかし、その冷却システムは、クーラー用ではなく、冷蔵庫用にまずは開発されたというのは前回に述べた。よって、冷蔵庫発明の歴史をたどっていけば、クーラー(のシステム)の発明者が分かるだろうと考えたのだが…、これが想定外(ちょっと古い)の結果だった。
 冷蔵庫の歴史にも「家庭用の冷蔵庫第1号」とか「氷を大量に製造することに成功」など、いろいろな節目がある。次のサイトに詳しい年表が掲載されているので、その努力に敬意を表したうえで、是非ご覧いただきたい。インターネットというのは、本当に便利だ。

冷蔵庫の歴史年表

 そのうちの、1860年のファーディナント-キャリヤ(Ferdinand Carre、フランス人)による、アンモニアを利用した冷蔵庫の特許をもって、冷蔵庫の発明とすることが多いようだ(ただ、この発明は「吸収型」の冷蔵庫であり、第1回で引用した「ののちゃん」で説明されたシステムは「圧縮型」であることを補足しておく。そのあたりをさらに詳しく知りたい方は、上記の「冷蔵庫の歴史年表」からリンクをたどっていっていただきたい)
 しかし私は、彼ではなく、もっと根本となる原理を考え出した人、すなわち気化熱を利用しようと思いついた人をクーラーの発明者と認定し、「あなたはステキで賞」を授与したいのだが、上記の年表からも分かるように、気化熱を利用する冷却システムというのは、むかーしから考えられていたことのようだ。古代ローマで、奴隷たちに扇がせて水を気化させ、その気化熱で食物を冷やしていたという記録も残っているらしい。そんなに普通に考えつくことなのかなあ…。
 私としては、「気化熱を利用したらいけるぞ」ということを考え出した瞬間のドラマがあってほしかったのだが、どうもそういう話はないか、あってもまったく伝わっていないようだ。残念な結果に終わってしまったが、「あなたはステキで賞」は今回は受賞者なしとしたい。

クーラーってステキ  ~クーラーの発明者は誰か その2~

 さて、前回の最後に宣言したように、誰がクーラーを発明したのか調べてみた。前回のエントリーを書き終えた時点で、いわゆるクーラーの発明者は「この人」と特定できるようなものではなく、気化熱を使った冷却器を考え出した人がそれに該当するのだろうと予測していた。そして、その冷却器はエアーコンディショナー(いわゆるクーラー)としてではなく、冷蔵庫として最初は開発されたのだろうとも考えていた。
 結果を述べると、最初は冷蔵庫として開発されたという考えは当たっていた。しかし該当者に関する予想は、はずれたというか、当たってはいたけど思っていたのとは違ったというか…。本命馬は来たのに相手が抜けていたというような、脱力感の漂う結果であった。

 クーラーの発明という線で調べていくと、予想通り、最初の業務用エアコンとか、現在のシステムに近いものを初めて量産化したのがどの会社だとか、そういうものしか出てこない。さらに予想通り、冷蔵庫の存在がちらほらと見え隠れする。クーラーに使われている冷却システムは、やはり、もともとは冷蔵庫用に開発されたもののようだ。これは、クーラーよりも冷蔵庫のほうが重要だったとか需要があったとかいうことではなく、たんに必要とされるパワーの問題だろう。電気代からも明らかなように、冷蔵庫よりもクーラーのほうがたくさんのパワーを必要とする。したがって、まずは冷蔵庫から実用化されたということだろうと思われる。
 ここまでは予想通りの展開だった。第3コーナーまでは思った通りに来ている。あとは本命馬が抜け出してくるのを待つだけだったのだが…。

 ここからは、話を冷蔵庫の発明に切り替えることにする。クーラーに使われている、気化熱を利用した冷却器の開発の歴史は、すなわち冷蔵庫開発の歴史といえるからである。
 というわけで、しつこく次回に続く。

クーラーってステキ  ~誰が発明したんだろう その1~

 いやあ、暑い。いよいよ夏本番という感じである。そんなときに、なんと会社のクーラーがダウンした。もう、地獄だ。地獄の沙汰もカネ次第というが、この地獄はカネでは解決できそうもない。当然、仕事もまったく進まないが、まあ仕方ないだろう(じゃあ、クーラーがあればバッチリはかどるのかというツッコミは却下する)。当社のクーラーの室外機は熱を放出しにくい場所に設置されており、熱をため込んで、ダウンしてしまったのだ。
 その後、室外機の環境が改善され、社内に平和が帰ってきた。ああ、ここは北極か、それとも南極か。クーラーってステキ。いったい誰が考え出したのだろう。クーラーの発明者はノーベル賞を受賞していないのだろうか。もし受賞していないのなら、代わりに私が「あなたはステキで賞」を授与することにしたい。
 ところでみなさんは、クーラーがどのような仕組みで冷たい空気を出すのかご存じだろうか。基本原理はそれほど複雑ではないのだが、非常によくできたシステムである。それでは、解説していこう…といきたいところなのだが、この説明は図があるほうが圧倒的にわかりやすい。しかし、私にはそういう図を作るアプリケーションも時間もスキルもない。
 ということで、次のサイトをご覧いただきたい。「ののちゃん」がわかりやすく説明してくれる。いや、説明しているのは藤原先生か。まあ、とにかく見てください。

ののちゃんのDO科学 クーラーはなぜ冷(ひ)えるの?

 このサイトの説明にもあるように、冷蔵庫も同じ仕組みで食べ物やビールを冷やしている。しかし、暖房に対して、冷房はなぜこのような大がかりなシステムを必要とするのだろうか。暖房の仕組みは、いたって簡単である。燃やせばよいのだ。燃やせば暖まる。太古の昔から、人類が利用してきた反応だ。
 ところが、冷房はそうはいかない。何かの操作をして「冷やす」というのは、一段階では無理である。ものを燃やせば(燃焼熱)熱くなる、ものを擦れば(摩擦熱)暖まる、のと同じように、何かをすれば「冷える」というわけにはいかない。違ういい方をすると、「熱」は運べるが「冷」は運べないのだ。私はこれがかなり不思議で、理屈としては何となくわかるのだが、直観的にスッと落ちてこない。この「冷」を運べない理屈については、なるほどと思える説明ができるようになれば、解説を試みたい。
 私が直観的に理解できるかどうかとは関係なく、どうも事実として、「冷」は運べないようだ。だから冷房は、気体を圧縮して液体にし、それを再び気体にするときの気化熱を利用して空気を冷やすという、多段階のシステムにならざるを得ないわけだ。そのため室外機が必要であり、そこでは熱が発生し、それをため込んだ当社のクーラーはダウンしたということである。冷やすためには、まず熱を発生させなければならないという、何とも矛盾したというか、むなしいというか、納得のいかない構造ではなかろうか。私が、「冷」が運べないことに何となくしっくりこないのも、ここに原点がある。
 しかし、クーラーを発明した人は偉い。もしクーラーがなければ、地球温暖化に伴って、暑いところはますます人が住めなくなり、土地争い、すなわち戦争が起こるだろう。ノーベル平和賞を授与してもよいくらいだと思うのだが、それが無理なら「あなたはステキに平和に貢献したで賞」を私が授与したい。
 というわけで、次回以降は、クーラーの発明者は誰なのかについて調べていきたい。

知ってるようで知らなかったノーベル賞 その8

まとめ

 ここまで、ノーベル賞の歴史、賞金、受賞者の選定などについて順に見てきたわけだが、いかがだっただろうか。ここまで有名な賞なので、何かオフィシャルな賞のように感じていた方もいるだろうが、非常に私的な賞であることがおわかりいただけたと思う。
 その選考過程の詳細も明らかにされていないし、また、信憑性のある噂もそれほど流れてこないところから考えると、関係者の箝口令も厳重にしかれているのだろう。そういった秘密主義的なところも、人々の関心を高める要因の一つになっていると考えられる。

 少し話はそれるが、箝口令に関して少し書いておきたい。文学賞や平和賞では、誰が最終選考まで残ったかということが漏れ聞こえてくる。最近では、文学賞で村上春樹氏が、平和賞でゴア元アメリカ副大統領が最終選考に残っているという噂が流れたのがその例である。報道の様子などから察すると、噂というよりは、おそらく事実なのだと思われる。それに対して、物理学賞や化学賞などの、理系の賞ではそういう話はあまり伝わってこない。伝わってくる話も、噂の域を出ないものが多いように思う。この違いがどこから来ているのかはわからないのだが、興味のあるところだ。

 話を元に戻そう。このような私的な賞であるノーベル賞だが、その影響力はみなさんもご存じの通りである。「50年間に30人のノーベル賞受賞者を排出する」なんていうことを、政府がまじめに宣言している国だってあるくらいだ(私がいま住んでいる国の話です)。
 ノーベル賞が誕生してから100年と少し。関係者の努力、とくに受賞者をいかに選ぶかという努力によって、賞の権威が支えられている。政府や大企業の援助も受けず、独力で賞金などの経費を確保し、受賞者の選考を行っているこの章を、私は評価したい。しかし、その権威に盲従し、ノーベル賞を取るために研究をするとか、ノーベル賞を取るような研究者を養成するとか、そのような態度は賞の趣旨にも反するのではないだろうか。

 今年も10月に受賞者が発表される。どのような人が受賞するのか、日本人の受賞はあるのか、引き続き注目していきたい。

知ってるようで知らなかったノーベル賞 その7

5章 どのように受賞者を決めているの?

 「誰が」ノーベル賞の受賞者を決めているのかはわかってきたが、それでは彼らは「どのように」受賞者を選んでいるのだろうか。今回はそれをみていこう。
 前回も述べたように、まず、ノーベル委員会が全世界の研究者や過去のノーベル賞受賞者などに、受賞者にふさわしい人を推薦するよう依頼する。今回も化学賞の場合を例に説明していくと、約3000人の研究者に推薦を依頼するそうだ。
 しかし、この3000人はどういう基準で選ばれているのだろうか。いちおう、「世界中の大学の教授から選ばれた者、過去のノーベル物理学賞と化学賞の受賞者、スウェーデン王立科学アカデミーのメンバー」と公表されているが、詳細は明らかになっていない。とくに気になるのは、世界中の大学の教授から選ばれた者だ。独自の基準があるのか、それともテキトーに送っているのか、何か他の方法をとっているのか、知りたいところである。おそらく、何名かの日本の研究者にも依頼がきているのだろうが、誰のところにきているのか具体的には耳にしない。公表してはいけないことになっているのだろうか。そうでなければ、「私のところには毎年きてますよ」とか「ずっときてたけど、今年からこなくなったよ…」とか、教えてくれる研究者がいてもよさそうなものだが。

 この推薦の依頼が毎年9月に行われる。ノーベル賞が発表されるころには、すでに次の年の選考が始まっているというわけだ。そして、推薦の締め切りが次の年の1月末日。同じ研究者が複数の推薦を受けるため、この時点で候補者は約250~300名に絞られる。
 引き続き、ノーベル委員会は、外部の専門家に意見を求める。ノーベル委員会には入っていない外部の研究者の意見を求めるのだろうが、なぜ外部の意見が必要なのだろうか。これは推測になるが、この時点でかなり候補者を絞るため、それぞれの分野に詳しい研究者の意見を聞いているのではないだろうか。現在は、各研究者の専門領域が非常に細分化されているため、候補者の研究の価値を見極めるには、近い分野の研究者の意見を聞く必要があるということかもしれないと考えたのだが、いかがだろうか。
 こうして候補者を絞り、ノーベル委員会のメンバーは、スウェーデン王立科学アカデミーに提出するためのレポートを作成する。この時点では、まだ複数名の候補者が残っている。アカデミー賞でいえば、最終ノミネートの段階である。そして、ついに10月の初旬に、この最終候補者の中から受賞者が決定される。最後はスウェーデン王立科学アカデミーのメンバーによる多数決で受賞者が決まる。ただ、どういうメンバーによる多数決なのか、ここも詳細は明らかにされていない。私の調査不足もあるのかもしれないが、選考過程に不透明な部分が多いという印象を受けないだろうか。

 不透明といえば、ノーベル賞は、最終選考まで残った候補者の名前すらすぐには明らかにされない。「すぐには」と書いたが、公開が許可されるのはなんと50年後である。逆にいうと、今年は1957年の選考についての公開が許可されるのだが、その年の化学賞の受賞者はアレクサンダー・トッドというイギリスの研究者で、ヌクレオチドとその補酵素に関する研究によって受賞したらしい。その年に、彼と最後まで受賞を争った研究者はいったい誰だったのか…ということに興味のある人はほとんどいないだろう。

知ってるようで知らなかったノーベル賞 その6

4章 誰が受賞者を決めているの?(つづき)

 引き続き、誰が受賞者を選んでいるのか、さらに細部を見ていこう。選考の過程としては、まず、ノーベル委員会(Nobel Committee)が、全世界の研究者や過去のノーベル賞受賞者などに、受賞者にふさわしい人を推薦するよう依頼するのだが、このノーベル委員会とはいったい何なのだろうか? ノーベル委員会とは、各賞ごとに設置されている委員会で、この委員会が実際の選考を取りしきっている。たとえばノーベル化学賞であれば、先に述べたスウェーデン王立科学アカデミーの中に化学賞のためのノーベル委員会が設けられていて、そのメンバーも公表されている。今年(2007年)の委員長は、Gunnar von Heijneという研究者である。

http://nobelprize.org/prize_awarders/chemistry/committee.html

 実質的には彼らが受賞者を選んでいるということだ。ノーベル賞がほしい方は、このメンバーに「私はこんなすばらしい発見をしたんですよ」と売り込めば、検討してもらえる可能性もあるかもしれない…ということはなく、委員会は「自薦」を一切認めていない。
 「オレもノーベル委員会に入って、選んでみたいぞ」と思ったときはどうすればよいのだろうか。化学賞では、委員は3年ごとにスウェーデン王立科学アカデミーのメンバーから選ばれる。したがって、スウェーデン王立科学アカデミーのメンバー(研究者)になれば、その夢もかなうかもしれない。
 以上のように、このノーベル委員会が、毎年「ノーベル賞にふさわしい人を推薦してください」と、全世界の研究者にお願いするわけである。そして集まった候補者の中から、受賞者を選んでいく。
 次回からは、どうやって候補者を絞り込み、最終的な受賞者を決めているのか、その過程をお伝えしていく。

知ってるようで知らなかったノーベル賞 その5

4章 誰が受賞者を決めているの?

 ここまで、ノーベル賞の誕生の経緯や賞金について見てきたわけだが、この章では、いよいよ「いったい誰が受賞者を決めているのか」という疑問を解決していこう。
 結論を述べるとあっけないのだが、受賞者を決定しているのは、ノーベルの遺言によって指名された機関である。具体的には、物理学賞と化学賞はスウェーデン王立科学アカデミーが、医学・生理学賞はカロリンスカ研究所が、文学賞はスウェーデン・アカデミーが、平和賞はノルウェー国会で選ばれた5名からなる委員会が、それぞれの受賞者を決めている。ちなみに、ノルウェー国会のことをストーティング(Storting)というのだが、なぜそういうように呼ぶのかはわからない(ご存じの方がいれば教えていただきたい)。また、スウェーデン王立科学アカデミーは、後に新設された経済学賞の選考も行っている。
 スウェーデン王立科学アカデミーもカロリンスカ研究所も、ノーベル賞を選考するために作られた機関ではなく、実際に様々な研究を行っている研究機関である。つい先日(2007年5月22日)、日本の天皇と皇后が「リンネの生誕300年記念行事」に出席するために訪れたのはスウェーデン王立科学アカデミーだし、カロリンスカ研究所は「研究所」という名前がついているが、その実態は医科大学であり、世界でも有数の医科系研究機関だそうだ。

スウェーデン王立科学アカデミー
カロリンスカ研究所

 ノーベルがこれらの機関を指名したのには、いろいろな理由があるのだろうが、ノーベル賞が現在も存続し権威を保っているところから考えると、彼の選択は正しかったといえるのだろう。当然のことだが、ノーベルが遺言で決定権を与えたわけだから、ノーベルが他界したときにはこれらの機関はすでに存在していた。つまり、長い歴史を持った研究機関なのである。スウェーデン王立科学アカデミーは、当時の国王であるフレデリック1世が1739年に設立したスウェーデン王立アカデミーの一つだし、カロリンスカ研究所は1810年に軍医の研究施設として設立された研究所である。こんなに昔から「科学」していたとは、何とも驚きではないだろうか。
 ここでちょっと気になるのは、これらの研究所に在籍する研究者には、ノーベル賞を受賞する資格があるのかないのかということだ。じつはこれが、「資格あり」なのだ。身内が身内を賞に選ぶというのは「そんなんアリかいな」と思わないでもないが、とくに問題視されていないところを見ると、選考は厳正に行われているということなのだろう。たとえば、カロリンスカ研究所からは、ヒューゴ・テオレル(Hugo Theorell)とトールステン・ウィーセル(Torsten Wiesel)という科学者がノーベル賞に選ばれている。もちろん、受賞したのは両者とも医学・生理学賞である。

知ってるようで知らなかったノーベル賞 その4

3章 賞金は誰が出しているの?(つづき)

 前回は、ノーベル賞の賞金について、その秘密を明らかにする前に終わってしまった。今回こそは、その秘密を解き明かしていこうではないか。
 前回、今年(2007年)のノーベル賞の賞金は、1千万SEKであることを述べた。1900年にノーベル賞が始まって以来、ずっとこの金額だったのだろうか。もちろんそんなことはなく、1901年の賞金は約15万SEKだった。現在の賞金の約1.5%である。今回、賞金の変遷の一覧を付け加えたのでご覧いただきたい(下のグラフ)。1901年から順に賞金を見ていって、何か気づくことはないだろうか。そう、なんと賞金は下がっているではないか。多少の増減を繰り返しながら、基本的には下降線をたどり、1923年に最低金額を記録している。その後は上昇に転じるものの、1930年頃からはまた下がりはじめ、1945年には約12万SEKとなってしまう。グラフをご覧いただければ、一目瞭然だろう。1950年以降は基本的に右肩上がりで、1981年に初めて100万SEKの大台に到達すると、それからたった20年後の2001年にはその10倍の1千万SEKとなり、現在に至る。初期の右肩下がりや、近年の急上昇はいったいどういう理由によるものなのだろうか。

ノーベル賞賞金変遷表


 ノーベル財団は1900年に創立され、ノーベルの遺言に沿って遺産を管理した。遺産に関する遺言の主旨は「がっちり元手はキープし、できれば増やす」というものであった。そのうえで、賞金の額も「できれば増やす」というように書かれていたわけである。そこで財団は、遺産をイギリスの国債や不動産などのかたちに変えた。遺言にある「がっちり」という言葉に忠実に、担保のしっかりした運用を行い、手堅く資産を守った。その結果が、先の表にあるような賞金の微妙な増減となって現れている。手堅く運用して何とか得た利益を、賞金として還元していたのであろう。
 しかし、手堅い運用には限界があり、賞金は相対的にはどんどん減っていった。経済が発展し、物価はどんどん上昇するのに、賞金はそれに見合うほどは増えなかったのだ。もう一度、先ほどの1950年までのグラフをご覧いただければ、そのことがよくわかるだろう。1945年の賞金は、121,333 SEKであり、なんと第1回の賞金よりも少なくなっているのである。
 これはマズい。財団はそう思ったに違いない。
 そこでまず財団は、第二次大戦終了後の1946年に、免税の権利を得ることに成功する。利益を得ても税金を払わなくてもよくなったわけだ。ある一つの私的な財団が免税を認められるというのは、かなり異例のことに違いない。この当時、ノーベル賞はすでに非常に権威のある賞だったからという理由もあるのだろうが、免税を認めさせるためには関係者のたいへんな努力があったのだろう。さらに1953年には、資産の運用についてのルールを変更し、あらゆる種類の株式を購入できるようにした。
 上記の二つの出来事を期に、賞金は急上昇を始める。賞金の変遷表をご覧いただければ、はっきりわかるだろう。しかし、いくら免税の権利を得ているとしても、戦後、一貫して賞金を増やし続けているというのは、大恐慌やオイルショックもあったわけだから、かなりの資産運用能力があると想像できる。とくに近年の上昇率は顕著で、先にも書いたように、20年間で賞金を10倍に増やした。村上ファンドやスティールも顔負けというところだろうか。
 以上のように、ノーベル賞の賞金というのは、ノーベルの遺産をノーベル財団が運用した、その運用益から拠出されているのである。いわれてみれば当たり前のような気もするが、意外に知らないことだったのではないだろうか。ちなみに、特定の団体その他からの寄付などはいっさい受け付けないそうだ。その理由は、もちろん、賞の選考に影響を与える恐れがあるからだ。
 ノーベル財団が資産運用をしているというのは、ちょっとイメージとは違う感じもするが、そういう泥臭いこともしないと経済的に成り立たないのだろう。結局、「先立つものがないと…」ということなのだろうか。ノーベル財団のやりくりも、わが家の家計も、なんだか同じようなことになっているのかなあとも思ったりした。

知ってるようで知らなかったノーベル賞 その3

3章 賞金は誰が出しているの?

 3章では、ノーベル賞の賞金について取り上げてみたい。いくらノーベル賞が名誉な賞だといっても、それなりに賞金は出さなければならないし、受賞者を選ぶのにも資金は必要だ。2章でも触れたように、ノーベル賞の資金は、もちろんノーベルが残した遺産である。しかし、いくら遺産が莫大だったといっても、なくなってしまわないのだろうか…。この賞では、資金が枯渇しない秘密(というほど、たいそうなことでもないのだが)を明らかにしていこう。
 ところで、ノーベル賞の賞金がいくらかご存じだろうか? この質問にすぐに答えられる方は、なかなかのノーベル賞通だといってもよいだろう。2007年度の賞金はすでに決まっており、一つの賞につき1千万SEK(スウェーデンクローナ)、日本円に換算すると約1億6千5百万円ということになる(2007年3月現在、1 SEK=16.57円)。これを高いと感じるだろうか、それとも安いと感じるだろうか。また、一つの賞に複数名の受賞者があった場合は、その人たちで賞金を分けるのだが、その配分率も賞を与える側が指定する。たとえば、2002年に受賞した小柴さんも田中さんも、分け前は4分の1であった(両方とも、受賞者は3人)。ちなみに、日本を含む主な国では、ノーベル賞の賞金は非課税となっている。
 ノーベル賞には五つの賞があるから、合計で7億5千万円が毎年賞金として支払われることになる。いったい、どこからこのお金が出ているのだろう。ノーベルの残した遺産を切り崩して使っているのだろうか。だとすると、いずれは資金も尽きて、ノーベル賞はなくなってしまうのだろうか。それとも、スウェーデン政府の援助があったり、大企業からの寄付があったりするのだろうか。

知ってるようで知らなかったノーベル賞 その2

2章 ノーベル賞の概略

 この章では、ノーベル賞をざっと見て、ノーベル賞というのはどういう賞なのか、その全体像をつかんでもらいたい。
 前章で述べたように、ノーベルはとんでもない遺言を残してこの世を去った。その遺言をもとに設立されたのがノーベル財団(Nobel Foundation)である。設立されたのはノーベルが亡くなってから4年後の1900年(ちなみに日付は6月29日)であった。この財団が現在まで存続しており、ノーベル賞に関するさまざまなことを取りしきっているのである。
 ただし、ノーベルが遺言を残したからといって、簡単に財団が設立されたわけではなかった。とてつもない遺産があったのだから、もめたのも当然だろう。親戚や友達がたくさん湧いて出たにちがいない。実際に、ノーベルの兄弟やその家族は、かなり抵抗したようだ。
 ここで、その「とてつもない遺産」について少し補足しておきたい。ノーベルの残した財産は、おもに前章で書いた「ダイナマイト」によるものであった。ダイナマイトがたくさん使われたからこそノーベルは莫大な富を得たわけだが、たくさん使われた理由が彼の思っていたものとは違ったのである。彼はダイナマイトの利用について、建設現場での爆破などを想定していた。しかし実際には、ダイナマイトは「兵器」としてとんでもない威力を発揮したのである。ノーベルはこのことに心を痛め、そのためノーベル賞に平和賞があるのだといわれている。
 これは、ちょっと美化されすぎている話のような気がしないでもないが、アインシュタインが原爆の開発をアメリカ大統領に嘆願したにもかかわらず、後にそれを後悔したことと似た話なのかもしれない。ただ、私が感じるのは、両者ともおそらく「この研究がどのように使われるか」というようなことよりも、むしろ「その研究自体の面白さ」に惹かれて研究にのめり込んでいったのではないかということである(ただし、アインシュタインは原爆の開発、いわゆるマンハッタン計画には直接はかかわっていなかったことは補足しておく)。現在でも、遺伝子工学・発生生物学・微生物工学など、悪用するとかなりヤバいことができそうな分野はいくらでもある。サリン事件もその一例だろう。科学者や技術者(とくに科学者)は研究そのものの面白さにのめり込んでいく人たちであると思うし、逆に言うと、研究そのものにのめり込めない人は、そもそも科学者には向いていないのではないだろうか。さらに、科学の進歩は、科学者たちのそういう性質(性格?)によって支えられていることも、また事実だろう。われわれも、いろいろ考える必要がありそうだ。
 ノーベル賞に話を戻そう。ノーベル賞は、上記のノーベル財団という私的な機関が授与する賞である。だれが、どのような調査をして受賞者を決めているのかや、賞金はどのように捻出しているのかは、後に詳しく見ていくことにして、ここではその他のことをざっと見ていきたい。
 まず、ノーベル財団は「Board」(日本語でいうと「委員会」か)によって運営されており、そこには7名の委員がいる。その7名は、すべてスウェーデンまたはノルウェー国民であり、ノーベル賞授与団体の管財人(Trustees of the prize-awarding bodies)によって選ばれた人たちである。なんだか複雑だが、要するに管財人というのが、陰のボスみたいな存在なのだろうか。ちょっと怪しげな雰囲気である。ただし、この「Board」は受賞者の選考にはいっさいかかわらない。では何をしているのかというと、財政面を担当しているのだ。要するに、お金を稼いでいるわけである。どのようにして稼いでいるのかは、あとで説明することにしよう。
 ところで、ノーベル賞には何賞があるのか知っているだろうか。正解は、物理、化学、医学生理学、文学、平和の五つである。もう一つ、経済学賞というのもあるのだが、これは1968年にできた賞で、ノーベル財団が授与する賞ではなく、正式名を「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞」といい、ノーベル賞とは別の賞である。
 この五つの賞の受賞者が毎年選ばれ、12月10日(ノーベルの命日)に授賞式が行われる。受賞者がパーティー会場のような立派な場所で、正装をして賞をもらい、そのあと講演をしている映像を見たことがあるだろう。ただ、カンヌ映画祭などのように、その場で華々しく受賞者が発表されるわけではなく、発表自体は事前(2005年は10月はじめに発表された)にすでに行われている。
 なお、その発表日時は事前に告知されているので、受賞するかもしれない人のところにはマスコミも集まり、会見場も用意されている。しかし、これはあくまでもマスコミ側の予想に基づいて集まっているだけであり、ノーベル財団が有力候補を発表するわけではない。選考過程はかなり厳重に箝口令が守られている。たとえば、ノーベル化学賞を受賞して一躍有名になった田中さんのところには、マスコミなどまったく集まっておらず、本人もなんの準備もしていなかったそうだ。世間の評価とはかかわりなく、独自の基準で受賞者を選考しようという意図は感じられるし、その点については賞を与える側もけっこう頑張っていると思う。
 私がいまおもにかかわっている分野でも、毎年、何人かの日本人研究者が有力候補として名前があがる。果たして今年は日本人の受賞はあるのだろうか。

知ってるようで知らなかったノーベル賞 その1

 自然科学に関わっている者の一人として、科学をわかりやすく伝える文章をブログに載せてみた。この「ノーベル賞」シリーズは、友人に「おれ達に科学をわかりやすく伝えるようなものを書いてみろ」と促され(脅迫され?)書いたものを、ブログに載せるために改稿したものである。
 思いこみや調査不足による勘違いもあるかもしれないので、お気づきの方はご指摘いただければ幸いである。


序章
 現代は科学の成果でいろいろなことが実現されているのに、あまりに何も知らないのはマズくないか? そこの君もケイタイやパソコンを使ってるし、テレビだって、科学の力を借りて番組が日本全国に届けられているわけだ。それなのに、そんなに無関心でもええんか?(別にええという気もするけど)。
 それに、そもそも科学ってけっこう面白いと思うのだがどうだろうか。私が感じる面白さは、「次から次に謎が現れる」的なワクワク感と「パズルのピースがあるべきところにカチっとはまる」的な気持ちよさだろうか。まあ、みんながそれぞれの面白さを感じてくれれば、それが一番なのだろうけど。
 と偉そうなことを書いたが、そういう私も科学についてそれほど知っているわけではない。みなさんに伝えることによって、私自身も勉強していくというわけだ。

 さて、記念すべき第1回のテーマは「ノーベル賞」である。「ノーベル賞くらいオレでも知ってるよ」という声が聞こえてきそうだ。しかし、ノーベル賞の何をご存じだろうか? ノーベルさんは、その昔、ダイナマイトを発明した人で、その儲けを使ってノーベル賞が作られた、ということくらいではないだろうか?(それすら知らないってことはないですよね…)。ノーベル賞には何賞があるのかご存じだろうか? ノーベルさんはもうこの世にいないけど、じゃあ誰がノーベル賞を決めているのか知っているだろうか? そういうことを、順番に説明していこうではないか。

1章 ノーベル賞の始まりとその歴史
 ノーベル賞は1901年から始まった賞であるが、それはアルフレッド・ノーベルが亡くなってから5年後のことであった。アルフレッド・ノーベルとは、もちろん、ノーベル賞の創始者である科学者だが、いったいどういう人物だったのだろうか。まずはそこから説明していこう。
 ノーベルは、1833年にストックホルムで技術者の家庭に生まれたスウェーデン人である(スウェーデンといえば、自動車のボルボや北極のオーロラなどが思い浮かぶだろうが、実は王国だということを知っているだろうか?)。その後、9歳のときに当時ロシアの首都であったサンクトペテルブルクに家族とともに移り、そこで教育を受けた。教育といっても学校に通ったわけではなく、兄弟とともに家庭教師から勉学を学んだ(ただしこれは、当時ではそれほど珍しいことではなかったようだ)。彼は、数学・物理・化学などの自然科学はもちろんだが、この時期に語学も熱心に学び、そのおかげで5カ国語を操ることができるようになった。この語学力は、後に大いに役に立つことになる。また、彼は自然科学の中では化学に興味を持ち、とくに力を入れて学習したといわれている。
 その後、彼はニトログリセリンという物質に出会う。これがダイナマイトの原料となる物質である。ただし、彼はニトログリセリンを作ったり見つけたりしたわけではない。この物質は他の研究者がすでに合成していた。ニトログリセリンに火をつけるとすさまじい爆発を起こすことはすでに周知の事実だったのだが、安全に運ぶのが難しく、爆発させたいところで、爆発させたいときに爆発させることができなかったのだ。
 少し話はそれるが、ニトログリセリンは爆弾の材料以外にも使われていることをご存じだろうか。実は、ニトログリセリンは薬としても使われているのである。なんの薬かというと、狭心症・心筋梗塞などの心臓の発作を止めるための薬で、発作時にこれを服用すると血管が拡張し、発作が鎮まる。発作の特効薬として、今日も使われている薬なのだ。
 そのニトログリセリンを爆薬の原料として実用化したのがノーベルだった。彼はロシアからスウェーデンに戻り、ニトログリセリンの実用化の研究に邁進した。1864年には実験中に大爆発を起こしてしまい、その事故で弟を亡くしている。しかし、そのような苦難を乗り越え、彼はニトログリセリンを安全に持ち運び、爆発したいところで爆発させる方法をついに見つけ出した。細かい技術は省略するが(説明しろといわれても、ちと困るというのが事実だが…)ニトログリセリンに二酸化ケイ素を混ぜると、液体のニトログリセリンがペースト状になり、持ち運んだり形を変えたりすることが容易になるのだ。彼はその物質を「ダイナマイト」という名前で特許申請した。このダイナマイトが莫大な利益を生んだことはご存じだろう。
 このダイナマイトの発明ばかりがクローズアップされるノーベルだが、他にもいろいろな特許をとっており、ダイナマイトだけで一発当てたという科学者ではない。また、経営者としても優れており、20ヵ国以上の国に90ヵ所以上の工場と実験所を持っていた。若いときに培った語学力が、こういうところで生かされたわけである。彼の優れた経営者感覚を示す一つの例は、彼の作ったが会社がいまでもいくつも残っていることだ。自ら研究して特許をとり、それをもとに会社を立ち上げ、会社を運営しつつ研究も続ける…。なんともマルチな活躍ぶりではなかろうか。
 そうして築き上げた莫大な資産を残し、彼は子供を得ることなく1896年にこの世を去った。遺言書を残して。そして、その遺言書の内容は驚くべきものであった。彼の遺産を、物理・化学・生理学医学・文学・平和の五つの賞に使えというものだったのだ。遺言の執行者には二人の若い科学者(Ragnar SohlmanとRudolf Lilljequist)が指名された。その二人の科学者が、遺言に従いノーベル財団を設立したのである。これが、現在まで続くノーベル賞の礎となった。
 以上のように、ノーベルは科学者というよりも技術者といえる人物だった。またまた、ちょっと話はそれるが、ここで科学者と技術者の違いについて少し触れておきたい。日本の大学にも理学部と工学部があり、理学部は科学者を、工学部は技術者を育てる学部だ。英語では、理学はscience、工学はengineeringである。理学は実際に使えるかどうかとは関係なく自然現象を追求する学問であり、工学は実際に使える技術を開発する学問というのが、両者の違いというか、本来の意味のようなものである。もちろん、理学と工学は密接に結びついており、その境界はあいまいではあるが、厳密にはこのような違いがある。ただし、最近の流れは実学重視であり、理学部での研究でも「なんの役に立つの?」という問いに答えられる研究が重視される傾向にある。
 「自然現象を通じて真理を追究する」という自然科学本来の目的は、いまや実現しにくいのかもしれない。役に立たない研究には、お金がおりてこないのだ。こういうように書くと「そんなことはけしからん」と感じるだろうと思うが、裏を返した書き方をすると「役に立たない研究に、みなさんの納めている税金が使われていますよ。それでいいのですか?」となる。そう問われて「別にいいですよ」と答えてくれる人がどれくらいいるだろうか。あなたはどちらの意見だろう。
 なぜノーベル賞というテーマなのに、こういうことを書いたのか。それは、ノーベル賞が、役に立つ研究を重視する傾向を強めている一つの要因ではないかと感じるからだ。ノーベル賞がそのような傾向を持つとするなら、その理由の一つは、ノーベルがいわゆる科学者ではなく、技術者だったからなのかもしれない。

【読書メモ】アンデシュ・ハンセン『スマホ脳』(新潮新書)

 2020年のベストセラーをようやく読んだ。もっと早く読んでおくべきだった…。   スマホがどれだけ脳をハックしているかを、エビデンスと人類進化の観点から裏付けて分かりやすく解説。これは説得力がある。   スマホを持っている人は、必ず読んでおくべきだ。とくに、子どもを持っている人...